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芸術とパワハラについて

第二のヌーベルバーグ(あえて言うならネオバーグ)

★プリミティブへの回帰
今年に入って日本の映画界では me too運動がはじまったともいえる騒ぎになっています。
この際、新しい「映画」「演劇」への取り組みが必要であると考えます。
わたしはかねてより、自論としてきたところでありますが、こうした一連の芸能関係で、あるいはテレビ産業で食べているひとたちに、第二のヌーベルバーグを導入するように勧めたいと思います。何れ、進める必要もなく、新たな波は起きるでありましょうが…。
1・現場で言われる映画製作者のパワハラやセクハラの事実と構造はなぜ生まれたのでしょうか?
そもそも日本の映画は「活動(屋)」(昭和初期)からきていることに疑いはありません。「活動屋」からの日本映画史は、明らかにイタリアのネオリアリズムやチネチッタなどとは流れが違うものです。違うのだけれどもある種パラダイムとしては、共通するものがあります。
それは、「家」「家族」という概念・伝統です。
日本の映画初期の「マキノファミリー」に代表される家族・家業としての活動屋が日本映画の原点でもあります。
ヨーロッパの映画も「写真」からはじまり「動画」、「記録表現」へと変遷してきたものです。
一方、絵画を見てみますと、その原点はプリミティブティにあります。
すなわち、神なるもの、神聖なものに対する畏怖、敬虔からはじまっているのです。
ひとにとって「象徴」的な表現である「静止画」は、表現、伝達、教育(普及)、ひとが感動する「芸術」へと変遷してきました。それは動画にも似た、物語であり、伝誦でもありました。
近年の日本映画は「娯楽」「遊び」としての、いわば、浪曲、歌舞伎、落語、浄瑠璃などのアーカイブ版「演劇・興行」として発展、発達してきたものです。戦後は、興行として歌・演奏のコンサートなどの登場と相まって、映画とコンサート興行は双璧のエンターテイメントとして娯楽の主流となってゆきました。
ここに「エンターテイメント」なるものが、芸術を超えて、「マジョリティ」、「モード」として大衆文化の中心に登り詰めたのです。
江戸時代から一方の大衆文化として「歌舞伎」があったようにカブクことでポップアップしてゆくという概念、「流行」(流行り)の源となることで、文化、エネルギーとなって発展してきました。
この時代から、侍に対する町民文化という側面が強く、反政府的な「不満への捌け口」や庶民文化としての「共有性・共鳴性」が求められたのです。
いわば社会の下部構造からの反発や批判を含む合理的な自己の立ち位置を明確にすることで、エンターテイメントの「映画」などは大衆性の確立も果たしてゆきました。
それは、平将門や忠臣蔵という演目、テーマによって昇華して行った背景をみればよくわかることです。
2「演劇の成立」
日本では、能と歌舞伎、浄瑠璃や謡が大衆文化となってゆく過程で、あくまでクリミティブな、信仰ないし、「念仏」「ええじゃないか」のような宗教性、神への畏怖から「儀式」としの、「祭り」や「通過儀礼」として演劇の大衆化がはじまったのです。俳句や歌会・宗教唱和(読経)などもその一つでありました。
これら演劇化の基本構造は、教育や啓蒙にありました。中央や国がどのように動いているか、それを説明し、啓蒙、喧伝することと、大衆の怒りを鎮めるための捌け口の側面をも持ち合わせていたのです。今でいうテレビ文化であります。
シェークスピアが演劇で果たした役割は、まさに王宮や政治の世界で行われていることを読み書きの十分できない一般大衆に対し、事実として知らしめる啓蒙・宣伝と同時に大衆の不満や怒り、批判をガス抜きする目的も合わせて、教育的役割を果たしてきました。
このとき、俳優は神の代理人(シャーマン・巫女)として、ミミクリー(憑依)もしくはイリンクス(目眩)な存在であり、いわば神の化身として「祭り」を司さどったのです。
このとき「伝承」において「流儀」(奥義)のコピーが行われてきました。それが、日本(集団・村)では徒弟制度として継承されてきました。弟子は絶対服従の被コピー者でなければならず、御神楽やお囃子という村の芸能のように、伝承(伝統)されることで、すなわち絶対服従のスタイルから始まりました。その際たるものが、ひとつに武士道であり、仏教の宗派活動や分派活動です。
日本では、カブくことで、真似と派手が横行しました。これは、「質素」「奥ゆかしさ」という民族性や文化と異なり、人が「個性」を持つことのはじまりとして、「表現活動」ということに繋がりました。能にみる幽玄からは距離を置くことで、すなわち、即時の笑いや感動、(文盲ひとが多かった時代の)週刊誌やネットの役割を果たし、情報ツールとなって行ってゆくことに置き換わり、変遷してゆきました。
すなわち「演劇」は宗教的儀式・儀礼(もののけ)にはじまり、「真似る」(憑依)ことによる「複製芸術」となってゆきました。「上手、うまい」は完全コピーが大前提となっての評価となるものです。
それでも近年の日本や西洋の「演劇」は、個性発揮の「表現」スタイルを確立してゆくことになります。
一方で能や西洋でのダンスにみる身体性の「自由な表現」もやはり、複製芸術の伝承の中から生まれたものです。特に西洋では、「個性」や「自由」としての表現と「感動」(共鳴・共振性)がセットとして大衆に根付いて行ったのです。ただし、クラシックバレーやオーケストラ、オペラなどは、継承や伝統というものを重んじて必ずしも自由や個性を前面に出したものではありません。
3複製芸術としての「映画」の誕生
映画は、記録として生まれ、複製されること、演劇が「一回性」であるのに、何度見ても「同じ情報」が繰り返されるものです。「感動の共有」としても演劇や絵画を乗り越え、複製として「誰でも気楽に得ることができる娯楽」(感動)としての精神的旅行・バカンスのようなチャンスを与えられました。
「生き生き生きる生活」「モノを考える」「キャンパスに絵を描く」という平等チャンスにより、大衆が「個性」を獲得して行った瞬間でもありました。(リゾートやリクリエーション)
西洋では、古典の小説、演劇が映像化されることで、第二の「記録」としての(複製)芸術美學を誕生させました。
「絵画」に対する動く風景としての「動画」が出現しました。これが、編集という過程を得て、「時間を行き来する表現」と相まって「映画芸術」となり、大衆化させてゆくことに繋がりました。
表現手段は、俳優のプレゼンスと映画技術の編集(監督)により、近代経済の下、発展してゆきました。映画産業の誕生であります。
興行収入が「評価」として存在し、アカデミー賞の創設と歴史がそれを支えたのです。
4・映画創設以来、演劇から俳優が出演する映画では、「演劇上位」技術の複製、教科書化が横行しました。文学、物語性の優先です。「感動」や「評価」は産業、ビジネスとして売り出されたのです。これが「風と共に去りぬ」の時代から幕開けしました。
一方でリアリティから、リアリズムから「複製芸術」から「ハプニング」としての大衆性として、さらに「記録映画」や「動画」としての「物語」性でない(非物語)、つまり、アンチ・エンターテインメントとして「複製芸術」を否定するような潮流が生まれたのです。ここに、映画芸術は大きく2分されることになりました。
ヌーベルバーグ(ゴダール・トリュフォー・さらにイタリア・フェリーニ)の誕生がそれです。ここから、発信する立場の主導から、受け手としての選択の芸術感性が尊重されるようになりました。
興行収益の時代から、大衆と作り手の相互交信のはじまりである「テレビ」も生まれました。どちらも銀幕やスクリーンと言われる平面に映し出された「虚構情報」でもあります。
これも、やがて、100チャンネルを超える大衆エンターテインメントとして日常を演出し、今日ではインターネットメディアと同じく、エンターテインメントの多様化を果たしています。
演劇、映画、ダンス、音楽の仕事場は舞台とテレビに変貌しました。テレビに出演し、映画に登場しなければ、もはや「役者」にあらず、表現者としての芸術家は消滅を余儀なくされたのです。
恐ろしいことに映画芸術やテレビはコマーシャリズムと一体化し、広告代理店が「新しいスター」を創出するようになりました。
5・パワハラ・セクハラの現況
ざっと見てきた通り、エンターティナーの歴史で、魅せる「複製映像芸術」が発展してきたのは、産業としてです。現在では、テレビ産業であり、ネットビジネスになっている点を見逃すことはできません。
なんのことはない、エンターテイメントのビジネス構造に入り込み、参加しようと思えば、パワハラ・セクハラは構造として存在している事実を受け入れるところからはじめなければなりません。
オーディションを受けるほとんどの女性が、そのことを理解し、利用しようとさえしているのが現状です。そこまでの産業構造を作ったのは、我々の時代であります。特に社会構造として西洋でも日本でもその根源には、男女のセックスの関係性が大きく関係しています。
現況は。女性は「タマ」(商品)としての価値であり、その基本は「セクシー」すなわち「より女性らしい唯一の個性」という名の下に、「性の道具」化(商品)しているのです。少なくともその扱いを受けなければなりません。
例えば「脱ぐ」ではなく、「裸で表現」することは、必然的に「必要」と教育、刷り込まれているのです。男女平等の前に、徒弟制度から始まった「パワハラ・セクハラ」は常態化しています。つまり社会構造やビジネス・消費構造として消えない「常識」となっている点に問題があるのです。
プロデューサーがテレビ出演と交換に「身体を求める」という基本構造を確立したのは、この産業化したビジネスマンたちであります。
それは、監督やプロデューサーを雇っている立場にある人間=基本は広告代理店や大企業の経営者男性の、ものの考え方に起因しているのです。
強い者と弱い物を作り出したビジネス環境と日本人男性の「性的嗜好・理解」では女性認識が大きく劣っています。
日本人文化は「恥」の文化というひともいるが、中でも男女に関しては、男性の性嗜好中心で、世界的に見ても「女性を娼婦、性奴隷」として潜在的に認識している男性が多いことに問題があるのです。
6・ネットの性事情がすべて
ネットで産業化している男性のためのいわゆるポルノ映像に問題があります。大手企業まで乗り出して「女性蔑視」を平気で「ポルノ産業化」している現状があります。
「女性がオナニーをしたがる」ということと、「女性がオナニーを他人に動画で見せなければならない」ということになんの同位性もありません。特に、日本社会では、「男性目線」「男性の満足や性嗜好」が「セックス」と誤解している男女・子供が多すぎることです。
「セックスで気持ち良くなることが男女の性愛、コミュニケーション」と考えていることにこそ、間違いがあります。日本人男性の多くは女性を「性の対象」としか見ない傾向にあります。そう教育されてしまっており、男性優位の、男性の性欲や射精願望が「女性への愛」と勘違いするに至っている点です。この象徴がネットのセックス産業です。
女性が「性的に満足する」内容についても女性自身が間違って認識している可能性があると思います。「男性の欲求を満足させる」という誤解のもとに男性に接するようになってしまっています。まさにソドムとゴモラであり、カリギュラ状態なのです。
ネットの性事情は男性のものであって、女性のものではありません。ここが最重要点です。中学生の女子(子供)が、男性の好む「オナニーを見せたい」と思い込んでいるのは、ポルノ愛好の日本人男性だけです。こうしたものが、永久に配信され続けてゆく以上、日本は、先進国に追いつくことはできません。まして芸術の先進国になることはありません。
2つの課題
一つは、女性が目覚め。「女性のセックス」を確立することであると思います。
もう一つは、ネットビジネスとしての「性虐待配信」の管理・運用の見直しです。これが10年続けば、少子化では済まなくなり、婚姻者は激減します。
5・ワタシからの提案は、日本人女性が、「動画」「映画」を制作・発信し続け、新しい「波」をつくり、自ら今までの「女性蔑視」を解放してゆくことが必要と考えます。
そのためには、映画、演劇、ダンス、舞台の新しいメディアを革新し、再構築する必要があります。徒弟制度やパワーハラスメントに至る全ての構造改革をするべきではないでしょうか。徒弟制度やパワハラに「良い点もある」と許すことが問題です。
簡単なことで、すべての産業に地位と権力を含めた監視的立場の女性を登用、増やしてゆくことが必要です。徹底して性の産業化や古い意味での「娼婦」概念を恥として捨て去らなければなりません。
正しい規範作り、新しい規範作りも必要ではないでしょうか。
まずは、テレビ局制作サイドと広告代理店を革新させることで大幅に改善できます。解体すら必要です。
さらに、ネットのポルノを取り締まるだけでなく、構造的見直しと女性尊重の公平性を大幅に社会に導入しなければなりません。
女性の身体やセックスが晒し者。「売り物」垂れ流し状態になっていることは、国全体の民族全体の品位や文化を貶めていることに早急に気がつかなければなりません。
文学や映画芸術の中には、女性蔑視を題材にしたものも少なくありません。時代ごとのそうした記録もあるのは事実ですし、文学や芸術として評価されているものもあります。しかし、なんでもあり、道徳観を失えば、子供の存在しない、女性蔑視の人類の歴史は終わるだけでとなります。
表現するもの、表現されるもの、鑑賞するものにも品位や人格は必要なのです。
今、表現者を生み出し、生業とさせるか、ベーシックインカムに移行しなければ、性による無尽蔵な被害が世界を破壊させることになるのは必然です。表現、芸術はその根幹の人間品位、男女共生、平等を失えば、人類が滅びることを知らなければなりません。