中国は官吏の優秀な国である。同時に権力争いも絶えない国である。嫉妬と怨念、特に健康、長生き、金、地位に固執することは世界一かもしれない。現在の日本は、官吏の崩壊した国に成り下がっている。この基本は政治にあるが、何より旧大蔵官僚、検察庁、裁判所(最高裁)を含めた、偽の「国体護持」に基づくものであろう。
もう一度、聖徳太子、平清盛の存在を考えるべきではないか。国体護持ではなく、自己保身、体制維持にしかなっていない。
国民の上に国民はなく、国民の下に国民はない。この時代に官吏を貶めたものは、教育である。スーパーコンピュータが、東京大学がどれほどのものか?学問のないものが、知識の乏しいものが、あるいは障害のあるものが、国民であり、国を担ってはいけないのだろうか?それが、学識高い、優秀な日本民族のありようとして正しいだろうか?
少なくともわたしはそう考えない。世界中のどの国より貧しくとも、資源や財産がなくとも、どれほどの競争に負けても「魅力的な国」はつくることができる。むしろ弱者であっても立派に国民として差別されてはならないのだ。人間の異なる関係、個性に「差」もなく、いかなる「上下」もあってはならない。
日本民族は、村が、皆だ皆を、衆が衆を守り、労ってきたのだ。この世に、劣る人間も、至らない人間も存在しない。その最たる落とし穴が学歴偏重である。韓国を観るまでもなく、それは恐ろしいほど愚かで不幸な話だ。学歴などというのは、個性にすら置き換えられない。評価に値することではない。だから、大学も好きな大学に進学させればいいだけの話である。そもそも、ひとがひとを評価したり、採点すること自体が、天に背いているとしか考えられない。学歴のあるバカ、学歴のない賢者しか、わたしのまわりには見当たらない。
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